そら

けっして変わらぬものを追い求めよ。
もしも、ある感受性の強い時代にこのような言葉を聞くならたぶん何かしらの転機を得ることにはならないだろうか。けっして変わらぬもの。そんなものあるのか?たぶん聞くだろう。そしてこう言うかもしれない。すべて変わる。あの山はもうない。削られてしまったから。あの川ももうない。埋められてしまったから。あの海も、あの空も、もう違った色をしている。すべて変わる。
変わらぬもの。もしかすると、変わらぬものというのは、とても相対的なのかもしれない。たとえば、あの日のようなこと。おじさんが広島の郊外にある病院の一室で死んでいった。わたしはそこにいて、変わるものと変わらぬものがあることをはじめて知った。おじさんのいのちは終わろうとしている、そして、窓の外の山はそのまま、変わらない。なぜ、おじさんは死んでいくのに、あの山は死なないんだろう。あの日「変わる」という概念がわたしの内側で完全に転換したんだ。「変わる」とは「はかない」とか「つかのま」とか、軽くてもろいかりそめな概念ではない。「変わる」とは、「変わらないもの」という求心的な強いひっぱる力があって、その力にも対抗するほどのもっと強い力で別のものに成っていくということなんだ。だから「変わらないもの」にしっかりと根ざすことによって「変わるべきものに、変わることができる」。「変わる」には相当な力と重みを要する。見えないだけに、見過ごしていることが多いが。
おじさんは競艇がすきだった。賭け事がすきな人というのは、もしかすると負い目を持っていることが多いかもしれない。賭けたところで、それが当たるかどうかはわからない。運というのは、当たったときにはじめて「もたらされた」ということになるのだろう。もたらされなければ負い目になるだけ。本能と名づけるべきものなのか。力は行き場を探している。
わたしの家の近くには大きな競馬場があって、毎週日曜日になると遠くからおじさんたちが集まってくる。おじさんだけじゃない、家族連れだったり、最近は賭け事もソフトになったなと思う。きれいな噴水や花壇も整備されていて、ちょっとした散歩コースにもなる。風見のアートが立ってて、風が吹くと軽くくるくると動いている。空、青い空のなかで、くるくると動く風見のアートはきれい。支柱に触れて、仰ぎ見て。