耐久するために

絢香さんの歌、I believe

この胸の中に隠れてる 不安のうず
目の前にある 自分の進むべき
道はどれか

人に流されてた日々 そんな自分に「さよなら」

I believe myself 信じることで
全てが始まる気がするの
I believe myself あたたかい光は
まちがっちゃいない 歩いて行こう
I believe
絢香

たぶん「自分を信じるということさえ」と言ったときの「さえ」というのがすでに×なんだろう。
中年オバサンになると「自分を信じること『さえ』できないの?」と言い始める。そうなるとたぶん次に出てくる言葉は「だめね」だろう。そうなると「だめね」と言われた誰かは「だめなんだ」「そうなんだ」となるだろう。そうなるとつまり「上下関係」ができあがり「対等関係」にはなれない。
「自分を信じることが」「できないんだ」。
「自分を信じるって」「どういうことなんだよ」。
「自分を信じることなんて」「実はできないかもしれない」。
オバサンは哲学ってしまう。たぶんそういう問題じゃないんだろう。
自分を信じるとか、信じないとか、そういうことを意識することのない毎日で、なんだかわからない「窮屈」で「不安」な思いにとらわれたりした時に「自分を信じることで何かがはじまる」と聞けば少なくとも「自分を信じる」ってことは何?と何かしらにひっかかり自分を見つめることになるのか。
もちろん自分を信じられなかった時代がわたしにもある。でもそれがどうだったのか、どういう感覚だったのか、思い出せないのか、思い出したくないのか。思い出そうとすれば、たとえば自分が針金のようにまったく実体のないものに感じたとか、そういう時代があったことは思い出せる。そうそう思い出した。自分を信じるという字を書いて「自信」というが、ハンガリーからの宣教師がその字を説明しながら、いくら「自信」を持ってもそれがいくらのものか?自分ができること、自分の持ってるもの、自分の性格、それはこの世でのもの、そしてそれらは必ず流れ去る。流れ去ることのないものを信ぜよと言ったんだ。あれからだな、何かがふっきれたようになったのは。つまり、自分を信じられない時は自分に固執してる時だったんだな。執拗に自分はどうしたらいいのかって思ってた。そういうふうに考えれば、今だって自分に固執して自分を信じられないでいるときがある。
ということはもしかして、この歌の真意は「『自分』を信じることで」の『自分』はいわゆる「自分」ではなくて『自分』、つまり、「自分」の奥の『自分』か?Soi-meme comme un autre...