American in Hiroshima

東京に来て仲間が朝日新聞「ひと」欄で出てたと教えてくれる。
ニュース:スティーブン・リーパーさん(59)広島平和文化センター理事長に就任
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000704230007
http://www.home-tv.co.jp/news/local.php?news_id=2007-04-238
このビデオの中で氏は「広島の人たちがしらけている、それを変えるのが課題」と言っている。
すごい。
氏の危機感がどれほど確信に満ちたものかが伝わってくる。
言葉の真実さからしても、
もしかすると核廃絶だってあり得るんじゃないか?って思えるような、
嘘くさくないものを感じる。

 「核廃絶のうねりを世界に広げ、被害と加害の国の橋渡し役となりたい」。原爆を落とした米国の出身者として広島平和記念資料館原爆資料館)を運営する財団法人の理事長に就任した。よどみない日本語で抱負を語る。
 穀倉地帯の広がるイリノイ州で生まれ、少年時代は日本で過ごした。父は宣教師で青函連絡線洞爺丸事故(54年)に遭遇。救命具を日本人客に譲って犠牲となり、三浦綾子の小説「氷点」の登場人物のモデルになったとされる。母はベトナム反戦の運動家。だが自身は起業を夢見る野心家だった。37歳のとき広島に定住したのも商機を求めてのことだった。
 翻訳会社を起こし、40代のころ、被爆した少年少女の手記集「原爆の子」を手にとったことが転機に。炎が迫る中、家の下敷きとなった母を置き去りに逃げた少女の叫びが胸に迫った。99年に日米市民が参加する平和団体を設立。ヒロシマを英語で語れる若者を育て、原爆が題材の出版物を手がけた。ニューヨークで反核ロビー運動も展開。「気が付くと両親と似た道を歩んでいた」
 長年懇親がある秋葉忠利広島市長から就任を依頼された。08年の米大統領戦をにらみ、米国全州での原爆展開催をめざす。2人の息子は日米両国に住み、自身は米国人の妻と原爆ドーム近くで暮らす。「被爆国でありながら米国の家来を演じ続ける第二の祖国の姿も問いたい」
朝日新聞2007年5月2日「ひと」欄2面

今日、二人の仲間がスコットランドに帰ったが、
彼女らの日本滞在の意向が、
ナガサキヒロシマの訪問だった。
修道生活50年、意を決して日本を訪れたいと願い出る。
彼女も、どうしても核を廃絶しなきゃならんと言っていた。
ほんとうにそうしなきゃならんと心から言っていた。
原爆資料館の館長さんであろうと、
目立たない祈りの生活をしてきた修道女であろうと、
心から核廃絶せなあかんと言う声は、
今日、ほんとうの声として聞こえてくる。
そういう今日だということだ。