ヒロシマが昇る


だから、ヒロシマに帰ったのはほんとうに久しぶりだった。
ちょこちょことは帰ってたけれど、
原爆ドームの横にある小さな噴水のところまで行かなかった。
あの噴水はわたしの20才のオアシス。
一日あそこでぼーっとしてた。
それで、久しぶりに帰って驚いたのは、
平和公園の木々だった。
成長してる。
原爆ドームの高さを超えるほどに揚々と空に向かって手を広げている。
どの木も60年を超えてはいない。
平和公園の木々は全部、焼け野原から植えたから。
MFは、広島のイメージがまったく根底から変えられたと言っていた。
ヒロシマ」と聞くだけで、なにか、人類史上最悪の情景が浮かんでくる。
アウシュヴィッツと違うのは、広島が今も人間の住む街として息づいているということ。
なにもなくはない。
ありすぎるほどにある。
これは記憶の風化ではないだろう。
生命の執念のようなこと。

それで、これまた久しぶりに広島のカテドラルに行く。
見慣れたステンドガラスを一つ一つ廻ってみながら、この窓に立ち止まる。
これは、キリストの昇天を示しているが、なんと、
十字架を抱えて昇っているのだ。
MFとこれはたいへん珍しいねと話した。
いや、今まで気がつかなかった。
これはまったくヒロシマを上手く言い得てる。
60年、みんな必死だったんだ。
がんばってきた。
なんとしてでも生き抜いてやろうっていうのが、わたしたちの意地だった。
こんなんでは死ねない、悔しいから。
十字架をかついで天に昇るほどの力で、ヒロシマは生きてきた。
自分たちの尊厳を絶対に失うことなく歯を食いしばってきたんだ。
生まれた地になにか人間の原点があるなら、
この生命力、とでも言いたい。

この日は洗礼式で15人の方々が洗礼を受けられた。
S神父の力強い説教。正義と霊性の統合はイエス・キリストに基づいている!
すばらしい。