信仰と理性


信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

第四章 信仰と理性との関係
≪信仰と理性の分裂による悲劇≫
45 最初の大学の設立以来、神学は、他の研究および学問的知識の諸形態と密接な関係を持ってきました。聖アルベルトゥス・マグヌスと聖トマスは、神学と哲学との組織的きずなを維持しながらも、哲学と諸科学がその研究の分野において有効に働くために、自律性の必要なことを認めた最初の人々です。しかしながら、中世の終わりごろから、この二つの学問分野間の正当な区別が、いまわしい分裂に変わってきました。一部の思想家にった過度な合理主義的精神のために状況は過激な方向に変わり、哲学の分離、しかも信仰の心理からの哲学の完全な自律にまで向いました。この分離のさまざまな結末の中で、理性そのものに対する不信までが、日に日に強まってきました。ある人々は、全般的、懐疑的、不可知論的不信を公言し始めました。それは、信仰にいっそう重要性を持たせるためか、さもなければ信仰への理性のあらゆる貢献を覆してしまうためでした。
 要するに、教父や中世の学者たちの思想が、最高の思考形態へ到達可能な認識の源泉である緊密な統一として考え実践してきたことのすべてが、信仰から分離し、それに取って代わろうとする合理主義的思想の擁護を助長する思想によってことごとく破壊されたのです。

このあと、「最高の思考形態へ到達可能な認識の源泉である緊密な統一として考え実践してきたことのすべて」を破壊したとされるモノたちが続く。
無神論人文主義
実証主義的精神
市場の倫理、デミウルゴス的権力の誘いにのった一部の者
合理主義
虚無主義
功利主義
機能的合理性

48 したがって、この現代哲学史において注目すべきことは、信仰と哲学的理性との間に日増しにつのる分裂の事実です。

哲学と神学の分裂に関して、なんとなくルサンチマンと感じてしまう文書。
昨日の非ヘレニズム化の三つの波じゃないけど、今の教会のこの状態を振り返ったとき、繰り返し繰り返しそのトラウマに至ってしまうなら、ちょっとそこから新しい展開はないんじゃないか。
破壊されたことも、いい勉強になった、とは言えないところなのだろか。
とはいえ、48で次にこんなふうに続いている。

(つづき)注意深く思考する者にとって、信仰と理性との間にすきまを広げようとする哲学思想の中にも、貴重な思想の萌芽がときとして見出されるのも真実です。この萌芽を正しい精神と心とをもって深め、展開していくなら、真理への道が見出されるでしょう。これらの思考の萌芽を、たとえば知覚や経験について、想像や無意識について、さらに、人格性や共同主観性、自由や価値について、また、時間と歴史についての深い分析の中に見出すことができます。

(48最後)信仰のパレシア(parrhesia公開性)に理性は勇気をもってこたえなければならないのです。

理性の働きについても、選びがありそうだな。