想い起こす3

http://homepage3.nifty.com/bunmao/0612.htm被爆のマリア」
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0613.htmヒロシマ再訪」
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0614.htmヒロシマ再訪(続)」

外からの訪問者の勝手なたわごとかもしれませんが、でも、外からの訪問者がいっしょに力を合わせることができなければ、ヒロシマは風化し、忘れられていってしまうように思うのですが。「ヒロシマ再訪(続)」

友人が教えてくれたサイト、
ぶんまおさんがヒロシマの記憶の風化について書いておられる。
あの日を知っている人たちが少なくなってきて、
記憶の風化については、耳にタコができるほど言われてる。
特に、ヒロシマの宗教事情についての言及は興味深い。

なぜ、仏教徒ヒロシマの死者を追悼し、平和を祈る場所がないのでしょうか。どう考えてもおかしい。ヒロシマは仏教が盛んで、とりわけ浄土真宗本願寺派の大きな地盤と言ってもよいところです。『原爆と寺院』を読むと、被爆後の被災者の供養に仏教のお寺が大活躍したようです。現在の原爆供養塔(いわゆる「慰霊碑」とは別で、引き取り手のない遺骨を納める)は、もと浄土宗西山派の慈仙寺のあった後だということで、そこに1946年に納骨堂を作ったのが最初ということで、もともと仏教者が中心になっています。
それほど仏教が活躍しながら、どうしていま、爆心地近くのお寺は沈黙し、原爆なんて知らないよ、という顔をするようになってしまったのでしょうか。もちろん、それぞれのお寺には、それなりの事情があるのでしょうし、また、見えないところで努力しているのでしょうから、一概に批判がましいことを言うのは適当でないのだろうと思います。それでも、こういうことは、人に見えないところで努力する奥ゆかしさよりも、ちゃんと見えるようにして、外から来た人にも一方で原爆の悲惨を伝えると同時に、もう一方で安らぎを与えてもらいたいと思うのです。(同上)

おっしゃるとおり。
しかし、宗教的次元で被爆で亡くなっていった死者と、
ぜんぜん向き合ってなかったかと言えば、そうでもないと言ってみたい。
わたしが、ヒロシマに生まれた者として、その宗教的次元で想い起こすのは、
夏の盆踊りである。
わたしは、母が被爆した爆心地から半径3Kmに生まれたが、
その町には「大河踊り」という盆踊りがある。
やぐらはおそらく戦後新しく造られたものだと思うが、
そこに被爆供養と言う字が書かれていた。
夏の盆になると、夜遅くまで太鼓がどんどんと鳴り響き、
意味不明な歌詞を歌い手の喉が唸る。
どーってことのない振り付けだが、
子どもの頃のわたしにはたいそう難しく、
それでも一生懸命踊っていたという記憶がある。
わたしは昭和40年に生まれたので戦後20年、
まだまだ記憶は古くなかった。
やぐらの傍には、小さな消防の小屋があって、
そこに、被爆で亡くなった人々の遺影が飾られる。
彼らは夏、盆の頃、ここに帰ってきている。
夜、オレンジ色の裸電球に照らされて、
彼らがここにいる。
今、想い起こせば、そのぼんやりとした明かりに、
遠い目をした人々の顔が浮かび上がってくるような気がする。
小屋の遺影だけじゃない、踊りに来ている人々の顔。
魚屋の前で、おじさんたち笑っていても、笑ってない。
8月6日が毎年くる、そして一週間もすれば盆だ。
すべてが記憶のまっただなかにある。
盆踊りは、たぶん、
被爆者にとって恐ろしくパラドキシカルな宗教的空間だったのではないか。
踊りの輪のなかにある生き残った被爆者と死者という被爆者の対峙。
なぜ、わたしは生きてこの踊りを踊るのか。
被爆供養のやぐらのまわりを廻って。
けれど、そんなことを言えば、
なぜわたしは生きて秋刀魚を食べてるのか、
なぜわたしは生きて電車に乗っているのか、
なぜわたしは生きて・・・
ヒロシマに来れば、誰でも思うはずなんだけど。
宗教的問い。
そんなヒロシマに育った子として、記憶の風化をどうするか?
まぁ、わたしのヒロシマのアーティスト仲間は、
複雑怪奇な宗教的空間を自分の内面に取り込んでいる。
この空間はまさしく、宗派を超えた、いわゆる、諸宗教な聖域とでも言いたい。
ヒロシマに生まれ育ったってだけで通じる、
つうかあの、内なる、ところ。
じゃぁそれがヒロシマを知らない人とどう共有できるのか。
わたしが今思うことは、
ヒロシマって聞いただけで、どうしようもなく心が掻きむしられたら、
それだけで、すでに、その場を共有しているような気がするんだけどな、
ってこと。
そしてその場はとっても宗教的なんだと思う。