Postmoderne


思い出してこれまた読んでみる。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも充分に近代化されていない。それはいままで欠点だと見なされてきたが、世界史の段階が近代からポストモダンへ移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆にもっとも容易にポストモダン化されうるからだ。たとえば日本では、近代的な人間観が十分に浸透していないがゆえに、逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適応することができる。そのようにして二十一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう・・・。
近代=西欧に対してポストモダン=日本があり、日本的であることがそのまま歴史の最先端に立つことを意味する、というこの単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済的環境を色濃く反映してもいる。八十年代半ばの日本は、ベトナム戦争より続く長い混乱期にあったアメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルへと至る短い繁栄の入り口に差しかかっていた。p.28−29


前に、ほーと思って読んだんだけど、今読むと違和感。どこかと言えば、「むしろ利点に変わりつつある」と「抵抗感なく適応することができる」と「最先端の国家へと変貌を遂げるだろう」。
実はここで告白すれば、私自身、ここにいて、日本人であることにある種の優越感を感じている。何に優越感を感じているか?というと、まさに、この「最先端の国家へと変貌を遂げた日本」という優越感なんだ。
下で書いたことと矛盾しているかもしれないが、世界経済第二位と言われるたびに、「なにそれ」という思いと、「すごいでしょ」という思いが心の中で交差する。自分がもしも日本人でなければ、こういう思いには絶対にならないと思う。こんなに日本に対して疑問だらけの私が、なぜ日本に優越感を感じなければならぬのか?
今日も食卓で「あなたたちの自動車免許証って未だに紙だよね」って言ってしまった。「そうよ、我らは原始の人間だわよ」とブーイングされた。でも実際、この国の自動車免許証だって、あと二年もすればプラスチックになる。この前ニュースで言ってたって、それを教えてあげた。でも、免許証がプラスチックになったところで、何がどうだって言うんだろ。
実際、私のことばの端々にはこういうようなことが起こってる。
郊外のこの状態を見て、なんでもっと内需対策しないのかね?とか。
なんというか、複雑。
大学の先生はポストモダン時代における神学について話す。モダンとポストモダンのそれぞれの時代がどう違うのか、これまで人はどう生きてきて、今どう生きているのか。堅固に近代な人が、ポストモダンについて語ることの困難さを感じる。近代化されていない人の方がよほどすんなりとポストモダンについて語れるだろうに。いや、もしかしたら、語るどころか、別のことするかも。