枝の日


聖なる町にイエスは入る。
預言者のように、救い主のように、王のように。
けれど彼は、謙遜な、平和の王として、そこにゆく。

マルコによる福音書
1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3:もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4:二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5:すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6:二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7:二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8:多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9:そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10:我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」11:こうして、イエスエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


今から起こることを知っているということ。
知っているということが権力に属さないという姿を、
エスのなかに、
見つけることができる。
彼がこの町に来た理由は彼がいちばんよく知っている。
そして、今から彼が行くべきところがどういうところなのか、
知っている以上に、そう、意識している。
不思議なことに、聖書を読む者もそれらいっさいを知っている。
エスがこれから行こうとしているところがどこなのか、
何が起こるのか。
十字架はイエスだけが負うのでなく、
わたしも負うということを実に知っている。
わかっている。
エスがわたしの苦しみを知っているように、
わたしも知っている。
エスの苦しみを。
知っていて、
打ち砕かれるままに。
なぜなら、
もうひとつ、
エスも、わたしも、
知っていることがあるから。
もうひとつのこと。
だから、
離脱は、
コンパッションのなかでしか、
それは恩寵にも近い。