Deus Caritas Est


今回はとっても短い。

Deus Caritas Est「神は愛」(8),Benedicte16

8.このように、どちらかといえばまだ一般的ではあるが、私たちははじめの二つの問いに対する答えを見つけた。その核心は、「愛」は、一つのリアリティであるが、そのリアリティはさまざまな次元を持っているということである。それらのうちの一つ、あるいは別の次元は、かわるがわる、それぞれの大切にすべきやり方で現われることができる。しかしまたその場合、この二つの次元は完全にそれぞれが引き離されることにもなるのだ。風刺的なもの、あるいは、とにかく愛が何かしら値引きされたかたちとして現われるということ。概観するようなやり方で、私たちは、聖書の信仰が、愛そのものであるところの本来的人間の現象に平行するような、また、そこに逆行するようなある世界を構築することはないということを見た。しかし、その聖書の信仰は、愛の探求に参与するすべての人間を、その探求を浄化するために、同時に、新しい次元へとその信仰を開きながら、すべての人間を受け入れるということも見た。聖書の信仰の新しさは、強調するに値する二つの点においてその存在を示す。二つの点とはつまり、神の姿、そして、人の姿(l’image de Dieu et l’image de l’homme)である。


ここで一部の1「エロスとアガペ―差異と一致」が終わる。次から一部の2「聖書の信仰の新しさ」に入る。そこでは旧約聖書にみる「神の愛」が中心に語られる、神の姿。そして3、「イエス・キリスト―神が受肉した愛」とすすむ、人の姿。第二部(19番から)の「Charitas」すなわち「Charité」では、三位一体の愛の現われとしての教会のCharité(愛*1)というところから始まる。

しかし、コメントもいただいて考えさせられてますが、「愛」を、○○の愛、△△の愛と名付けるという伝統は、日本においてどの程度の歴史なのだろうかと。「愛」は、そんなふうにカテゴライズされるのかーということがわかりはじめてどのくらいなのだろう(調べてみる価値あり?)。日本には日本の伝統枠による愛のカテゴリがあるはず。

ただやはり「愛」が「徳の一つ」であるという考え方はどうなんだろ、そもそも日本にあるのか?まさにその「(神からくる)徳として考えられる愛がCharité」なわけだから、そういう意味ではCharitéは「慈愛」なのか、そうすると日本にももともとその感触はあるってことか。

参考になるサイト
http://agora.qc.ca/mot.nsf/Dossiers/Charite
http://www.newadvent.org/cathen/03592a.htm

*1:これを「愛徳」と訳してる。