ことば、からだ、わたし


P.リクール、Soi-même comme un autre,p71-72

試訳
身体そのものの特徴として現われる帰属の二重性が、「私、誰それ」という(主体の)混合的構造を根拠づける。つまり(自己の)身体は、いくつもの身体の中の身体として、世界の経験の一断片を構成する。また、身体は、私のものとして、世界の境界の参照点だとわかる「私」の位置をはっきりさせる。別の言い方をすれば、身体は、世界の事象であると同時に、自分が語っているさまざまな対象には属さない主体としての器官なのである。自己の身体のこのような奇妙な構造は、発話の主体から、発話行為そのものまで拡がる。息によって外に押し出され、発話と身振り全体によって明確に発語された声として、発話は物質的身体と運命を共有する。声は、語る主体がねらっている何かしらの表現として、発話行為の伝達手段なのであり、その発話行為は、何も代入することができない、世界の視界の中心である「私」に送り返されるのである。


「語る主体」は、身体の特徴である二重性―「代入され得る私」と「何ものをも代入され得ない私」―と同様に両義的な存在であるが、しかしそれは、時間という歴史的な軸において、同一(同一性mêmeté)なものであると認めることができ、自己(自己性ipséité)なものであると振り返ることができる、という二つの操作によって、はじめて一つのものとして浮かび上がってくる。


この両義性(解釈学で言うところの)が宗教言語を言い表していることはたしかだと思うな。