生命の哲学プロジェクト


queloさんのブログで森岡さんが「生命の哲学」プロジェクトを始動されたのを知る。http://d.hatena.ne.jp/quelo4/20060220

≪queloさんのブログより引用の引用≫
私はいま、「生命学」の一つの新たな試みとして、「生命の哲学philosophy of life」プロジェクトというものを構想中である。「生命学」は生と死の実践学を目指しているが、この「生命の哲学」はどちらかというとアカデミックな哲学的営為を中心になされることになる。類似学に「生命倫理学」があるが、生命倫理学は「善悪の判断」や「ルール作り」への寄与を使命づけられている。これに対して、「生命の哲学」は、それらの判断や思考の背景にあるところの、「生命」「死」「技術の介入の意味」「幸福」などについて、きわめて現代的な視座から哲学的な思索を深めていくのである。

アカデミズムな領域のパラダイム転換。「生命倫理」に徹底コミットした後の氏の、それに対する限界と展望が「生命学」というタームににじみ出てるようにも見える。こういう積極性は実際、言語化することによって浮き彫りにされ、だんだんと、具現化してゆくものなのだろう。「哲学」というくらいだから、思想が生産されてゆくはずである。
たぶん、わたしは、その思想が生まれるのをたのしみに待ってるんじゃないかと思う。
生まれたての思想はさぞかし生命力に溢れているのだろうと想像しているのだ。
無痛文明論」が生まれるときもそうだった。読者の一人として雑誌「仏教」連載の時から、毎回楽しみにして次なる思索を待っていた。言ってみれば、いわゆるファンの一人なんだけど、なんだろ、ある意味、それは次なる回想(レフレクション)のお題みたいなところもあるのだ。これが解けるかね?みたいな世界が与えられる。で、お題に取り組み、その思索によって、わたしの「信」もすすむ。
古代教父オリゲネスが、セルスという哲学者への反駁、Contre Celseという書を記している。セルスの命題を一つ一つ取り上げては、自分の信仰に照らして、解読したり、論駁したりする。森岡さんの思想に論駁するつもりはぜんぜんないが(非常に近い線を感じるので)、ある種の、差異化、同一化の作業のために、わたしにとって直面せざるを得ない大文字のAutre(他)であることは間違いない。つづく